第十話『約束』

 ギターの弦、ゲーム機といった趣向品。また普通の生活必需品を買い足した仄音の生活水準は見違えるほど上がった。
 きちんと朝に起きて、夜には眠る。避けてこそいるが一人で出掛ける事も可能になり、近所のコンビニに足を運べるようになった。もっと言えばロトという同居人ができて心身ともに豊かになっている。

「はぁー……もう十二月の十一日かぁ。時が経つのは早いなぁ……」

 音楽の勉強を欠かさない仄音は炬燵の上で教本を広げて読書する。二年ほど前に買った本なので、記されていることは既に知識として蓄えているものばかりだが、勉強にならない訳じゃない。
 本を捲ってはパラパラと流し見して仄音はふと思った。

(そういえば誕生日は十二月十二日だから明日で誕生日……二十一歳になっちゃうのか……)

 時が経つのは早いと思った。数か月前は学生生活を送っていた気分なのに、実際は数年が経過している。
 すっかりお婆さんのような思考になった仄音は諦めたように溜息を吐いて、目の前でパソコンの画面に釘付けになっているロトを見つめた。

(ロトちゃんはすっかりパソコン人間、いやパソコン天使だよ。四六時中パソコンを触っているし……)

 ロトが勝手にパソコンを使うようになった時、仄音は汗を滝のように流して焦った。見られたくないものを見られたのでは? と不安に駆られたのだが、機械音痴なロトはアニメを見るために使っただけと言って否定。
 そもそも情弱な天使にパソコンのデータを探ることなんてできないだろう。そう思い直した仄音はあっさりとロトの言い分を信じ、額の汗を拭った。

「ロトちゃんは何を見ているの? またセイバー?」

「ええ、そうよ」

 セイバーとは『神仮面ファントムセイバー』という特撮を指しており、集中しているロトは軽く頷いて肯定した。

「この三日間、ずっと見てない? そんなに気に入ったの?」

「……いえ、これを見ているのは貴方との話題を増やすため。詰め込んで視聴するのは地上波に追いつきたいからであって、決して気に入っている訳ではないわ」

 イヤホンといった物は着けていないため、パソコンに内蔵されたスピーカーから音が駄々洩れだ。

 『ファントムセイバー! 只今、見参だぜ!』という声が静寂とした部屋に響く。
 ああ、主人公が変身したということはクライマックスだろうなぁ、と仄音は感想を抱いた。
 ロトは興味が無いと、仕方なく視聴している風を装っているが、鼻息を荒くして画面に注目している姿はハマりハマった熱狂的なファンだ。

「確か主人公の必殺技ってファントムフラッシュ――「ファントムスラッシュよ。剣先にエネルギーを集中させ、振るう事によって射出する技で、当たった敵は内部から爆散する超絶格好良い技よ。因みに主人公の決め台詞である『拳があちーぜ』も、味があっていいわね」――そ、そうだっけ? あはは……」

 言動がファンのそれだが見栄を張るロトは何が何でも否定する。それにしては下手だろう。
 仄音は乾いた笑みを浮かべ、次の瞬間には俯いた。
 普段のロトは仄音を気にして、彼女が暇そうにしているなら声を掛けては構っていた。しかし、今は特撮にのめり込むように夢中になって構ってくれない。それが何だか気に食わない仄音は子供のように頬を膨らませてしまう。

(いや、それが普通なんだよ……構って欲しいなんて子供じゃないんだから……もう二十一歳の大人だよ!)

 ハッと我に返った仄音は自分に強く言い聞かせ、再び本を読み始めた。
 そして、何時間が経っただろう。ロトが三話ほど見終えた時、仄音は腕を大きく上へ伸ばし「んー」と軽くストレッチをし、気分を変えるためにテレビを点けた。ロトを配慮して音量は小さめである。

「あ、ミカエルステーション……」

 テレビに映ったのは天使の番組であるミカエルステーション。朝食時、ロトがいつも掛けていたチャンネルであり、そのまま設定されていたようだった。
 仄音は何となく林檎ジュース片手に見始めた。天使の番組は普段何を発信しているのか興味があった。

『えー前に放送した『悪の欠片、プリン混入事件』ですが……犯人は僕でした。はい、部下に見つかって殴られましたよ。ほら、上司である僕を殴ったんですよ! それもトンファーを持って、こう足で頬をね。酷いでしょ?』

「なにこの番組は……」

 ツッコミどころ満載な天使の番組に仄音は苦虫を噛み潰したような顔で肩を落とした。
 仕様もなさそうな事件が数日ぶりに解決したと思えば、犯人は司会者であるミカエルで、彼は部下に制裁を受けて赤くした頬にガーゼを付けていた。いや、そもそもトンファーを持つ意味はあるのだろうか。
 ロトは以前にミカエルステーションは主にニュースを扱っていると言っていた。
 それは果たして本当なのだろうか? 本当はニュースの皮を被ったバラエティ番組ではないのか? 本当にニュース番組だとしても身も蓋もないような内容だと仄音は思ってしまう。

『あ、ここで次のニュー――え? なんだって? あ、そっかぁ……これはまずいことになった。まずいまずい』

 スタッフからカンペを出され、それを読んだミカエルは徐に立ち上がって、視聴者に背を向けた。ポケットからスマホを出して、二、三回ほど画面をタッチして操作すると耳に当てる。その行動はまるで誰かに電話を掛けるようだろう。

 ――神仮面ファントムセイバー! 悪を蹴散らすため、神の名を元に剣を振るうぜ!

 仄音は戦慄した。
 部屋の中に木霊した『神仮面ファントムセイバー』のテーマ曲は炬燵に置かれたロトのスマホから発せられている。つまりロトは着信音を態々変えていたのだ。
 仄音はぐっと堪えた。本当はロトを問い詰めたかった。「本当は大好きなんでしょ! ファンなんでしょ!」と責めたかった。が、言ったところでロトは頑として認めないだろう。

「……っていつまで見てるの!? 早くしないと電話が切れちゃうよ!?」

 痺れを切らした仄音は声を荒げた。
 タイミング的にロトに電話を掛けているのはミカエルなのだろう。テレビの中のミカエルは中々応じない電話にイライラして、腰に手を当てて爪先でリズムを刻んでいた。

「出たら確実に仕事を押し付けられるだろうし、出ないわよ。ノルマはもう達成しているから働く必要がないもの……」

「え、えぇ……そんなにハマったの?」

「だからハマっていないわ」

 以前のロトは一生懸命に四六時中働き、天使の誇りを胸、いや天高くに掲げていた。業績が評価され、上司たちは厚い信頼を寄せた。ミカエルが電話を掛けているのも、ロトなら緊急に対処してくれるだろうという信頼のお陰である。
 仄音の更生に努めてからロトは格段に仕事を減らしたが、電話越しに指示される緊急の仕事は絶対にこなしていた。
 しかし、目の前の彼女は最低限の仕事をこなすだけで天使のプライドは感じられない。ただ特撮に夢中になっている痛い中二病だろう。

『うーん……珍しく出ないなぁ。他の天使に頼るか? いや、でも彼女じゃないと被害が大きくなるかもしれないし……』

 ミカエルは苦悩し、唸っている。
 その苦しい独り言を耳にした仄音は焦った。

「なんだかよく分からないけど被害が大きくなるらしいよ。早く行ってあげて? ロトちゃん? ね? お願い!」

「えぇ……」

 働きたくない気持ちと、仄音の頼みは聴いて上げたいという気持ち。その二つが天秤に掛けられ、皿はぐらぐらと揺らぐ。

「もう! いい加減にして! 電話に出ないと怒るよ!」

「はい、もしもし――」

 仄音に嫌われると思ったロトの行動は迅速だった。素早くマウスを操作して動画を停止すると同時に、片手で電話に応じた。それから「はい、わかりました」と暫く会話すると通話を止めて、ベランダに立つ。

「それじゃあ仕事に行ってくるわ。あ、ぱそこんはそのままにしていて頂戴ね。晩御飯までには帰って来るつもりだから」

 ロトは神々しいオーラの翼を広げ、以前に仄音がUFOキャッチャーで取った光輪を頭に装着した。
 ベランダに立った彼女はまるで戦場へ舞おうとしている天使のようで、背中で語るかの如く言い残し、大空へと飛び立った。

「い、いってらっしゃい……」

 人が変わったかのように張り切って仕事に出掛けるロトを見送った仄音は放心気味だった。いつかご近所さんに見られるのではないか? と懸念を抱いたが、どうすることもできないので考えないようにする。




 ロトが出勤して、仄音はギターを抱えていた。
 最初は練習しようと思っていたのだが、いざギターを構えると物思いに耽ってしまい、心ここに在らずと言った風にぼーっと今後について考える。

「はぁ……このままじゃ約束を果たせそうにないよ……」

 脳裏に浮かぶのは優しい親友。約束を交わした仲であり、破らないために仄音はギターを上手くならないといけない。
 ハードケースの上に置かれた仄音の宝物である写真。そこに写った親友は仄音と一緒に満面の笑みを浮かべているのだが、今にも消えそうな儚い笑みにも見えてしまう。

「悪の欠片が覚醒するまで一年か……それまでにどうにかしないとなぁ……」

 具体的な線引きが出来ていない仄音は呟いた。
 彼女と約束したのは『ギターを本気で頑張って最高の演奏を聴かせる』だ。そこに技術は関係なく、最高の演奏をできると自負するならば、今でも達成されている事になるが、仄音はそう思っていなかった。
 仄音の中の最高の演奏とは売れていることだ。世間で認められて、ファンができ、本業にできるほどお金を稼ぐ。その曖昧な環境が出来た時こそ、自分は最高の演奏を親友に送れると思っていた。
 つまり、あと一年。その短い期間で、ギターで成功しないと約束は守れないということになる。
 難しいことだろう。音楽に特段才能がある訳でもなく、ただ少しギターが上手いだけ。それだけで売れるほど音楽は甘くない。
 勿論、仄音も身に染みて分かっていた。だからこそ引きこもりになり、厭世的になっていた。今はロトの更生を受けて、大分とマシになっているが……

「ロトちゃんに殺されたら、何もかも投げ出せて楽だろうなぁ……」

 仄音は今まで死んでもいいと思っていた。世界が滅んでしまうなら、それならそれで仕方ないと思っていた。
 だけど、今では心のどこかで生きたいという気持ちが芽生える。今の楽しい生活、見つけてしまった親友との写真が仄音の後ろ髪を引っ張った。