第七話『四面楚歌』

 突然な国家権力の登場に、額から汗を噴き出した仄音はその場で土下座を披露した。

「す……すみませんでした!」

「え、えぇ! 僕、まだ何も言ってないけど!? 何かしたのかい!?」

「してないです!」

 動揺を隠すかのように食い気味に答える仄音を見て、警察は目を丸くした。突拍子もなく、土下座をされたら誰だって困惑するものだ。

「も、もぉびっくりするじゃないか……最近、この辺りで不審者が出没していてね。幼い女の子が狙われているんだ」

「そうなんですか? それはいけないですね!」

「なんでも飴といったお菓子で釣っているようでね。荷物を見せてもらってもいいかな?」

 そう訊いてくる警察だが、実質拒否権はないだろう。
 仄音は顔を青くして、サウナに入ったかのように汗だくだくだ。何故なら、仄音のトートバッグにはロトによって持たされたお菓子が入っているのだ。

「こ、これで勘弁してください」

「何をやってるんだ!? 君は!?」

 お菓子が入っている以上、疑われるかもしれない。最悪の場合、冤罪を掛けられて牢獄行きだ。
 何が何でも鞄の中身を見られたくなかった仄音は財布から千円札を五枚ほど取り出して、警察へと捧げた。俗に言う賄賂である。

 が、勿論警察は賄賂に靡かない。よく出来た組織だろう。寧ろ、挙動不審気味な仄音に何かあると疑い、鋭い目つきに切り替わる。

「お金は受け取れない。兎に角、鞄の中身を見せてもらうよ」

「あっ!」

「これは……」

「ち、違うんです! 確かにお菓子ですけど氷砂糖です! 氷砂糖はノーカンですよね! ね!」

 仄音がびくびくとした様子で答える。氷砂糖も立派なお菓子なのでノーカンも何もないのだろう。
 警察は怪訝な表情を浮かべ、鋭い眼光で仄音の格好を確認する。つま先から頭の天辺まで隈なく、だ。
 不良っぽい服装だが彼女の怪しい行動は全て人見知りだからだろうと、警察は今までの経験から何となく分かった。しかし、絶対に悪人ではないと断言はできない。少しでも可能性があるなら疑うのが仕事なのだ。

「ん? 無線か。はい、こちら――はい、了解です」

 不意に無線から連絡が入り、警察の耳に最新の情報が飛び込んでくる。

(近くに不審者の目撃情報か……挙動不審気味、猫のような特徴的な黒髪で、ロックを彷彿とさせる格好ねぇ……うん、この子のことだよね)

 警察は再び仄音を見据える。
 確実にその不審者とは仄音のことであり、それは事実だった。痛々しい格好をしている挙動不審気味な女性。正義感溢れる人ならば通報するだろう。

「君、身分証明できるものを持っているかな?」

「え? は、はい……」

 仄音は財布に入っていたほぼ意味を成していない免許証を警察に渡した。
 名前、年齢、住所を把握すると警察は再び鞄の中身に手を付ける。そんな時、また仄音は財布からお金を取り出した。それも今回は千円札が八枚だ。

「すみませんすみません。私は人畜無害な一般ピーポーです! これで勘弁してください!」

「だから見逃すことは――ってさっきより増えてない!?」

「さっきは……その……少しだけ手元に残しておきたくて……私の小さなプライドです」

「みみっちいな! そんなことで胸を張られてもだな!?」

 思わず警察はツッコミを入れてしまう。仕事のことなど頭の中から消え去ったが、数秒後には落ち着きを取り戻した。

「ごほんっ!」

 気を取り直すように咳払いをし、再び鞄へと手を付ける。
 仄音は警察に疑われているとパニックになっていたが辛うじて平常を保っていた。

「ん? これはなんだ?」

 鞄の中身は至って普通。と思いきや底の方に小さな袋が出てきた。中には砂糖のような粉末が入っており、まるで隠されていたようだ。
 まさか、危ない粉なのでは? と、警察は鋭い視線を仄音に向けた。

「そ、それは……」

「これはアレだね? 本当のことを言いなさい。黙っていても検査で分かるぞ」

「え、ええ、エンジェルパウダーです!」

 聞き覚えのないチープな単語に警察は耳を疑った。
 しかし、仄音は真面目だ。信じてもらえないと分かっていたが、それでも真実を主張するしかできなかった。

「嘘を吐くな。これは薬だな?」

「違います! 天使から授かったエンジェルパウダーです! 多分調味料です!」

「なんだそれは! 使ったら天使に召されるほど気持ちよくなるってことか!」

「違います! 逆に気持ち悪すぎて失神します!」

 仄音の言い分は事実だった。
 このエンジェルパウダーなる物はロトがライスオーブという料理を作った際に使われた謎の粉なのだ。その激マズ具合ときたら地獄を体現しており、思い出してしまった仄音は吐きそうになる。
 しかし、一つだけ疑問があるだろう。
 そう、どうしてその粉が仄音の鞄の奥底へ隠れていたのか。
 実はエンジェルパウダーとは天使の間では万能として知られており、お守りのように肌身離さず持つのが定番だった。つまり、ロトが仄音の安寧を願って、勝手に鞄へと忍ばせていたのである。
 結果として安寧とは真逆の物騒な出来事が起きているのだが……ただ嵌められたと仄音はパニックに陥っている。

 仄音の迫力に警察は一瞬怯んだが、直ぐに上擦った声で仄音の腕を掴んだ。

「と、兎に角、署まで来てもらうぞ」

「ちょ、嫌です! 離してください! 誰か助けて! この人ストーカーでーす!」

「す、ストーカーだと! 妄言も大概に――うげっ!」

 警察と仄音が揉めていると、突如空から落ちてきた水玉が警察の頭上に直撃した。
 強い風が吹き、仄音は髪を棚引かせながら目を丸くしてぽかんと口を開けてしまう。本当に突然で、隕石が落ちてきたようなインパクトがあった。
 普通に考えてあり得ないだろう。まるでバケツを零したかのような水塊が頭上に落ちてくるなんて、何処のファンタジー世界だ。

「あ、もしかして……」

 人は理解できないものを目にした時、今までの人生で見知ってきた概念の中から理解できないものに一番近しいものを探し出し、それに当て嵌める。
 仄音の場合、それは天使だ。この水を落としたのは天使の仕業だ、と確信した。ロトかどうかは分からないが、こういった非日常は天使だと相場で決まっている。

「うっ……」

 強い衝撃に意識を失った警察は数秒間身体を硬直させると倒れてしまった。白目を剥いていて、無事とは言い難い。
 仄音は恐る恐る警察の首筋に手を当てた。

「い、生きてる……」

 轢かれたカエルのように倒れている警察だが、幸いな事に脈はあった。正常に呼吸をしている。
 そこで仄音は思い出したかのように辺りを見回した。
 周りには人の気配はしない。しかし、いつ人が来るか分からない。騒ぎになれば、もっと人が集まるに決まっている。
 そうなれば仄音は真っ先に疑われ、野次を飛ばされながら捕まってしまう。最悪の場合はニュースに掲載され、インタビューにてロトが「いつかやると思っていました」と答えるかもしれない。

「あ、あはは……私は何も知らない。何も見ていないよ……」

 仄音は譫言を呟き、逃げるように現場を後に――できなかった。
 空から舞い降りた天使によって首根っこを掴まれたのである。

「あ、アリアさん!?」

「ふっふっふ、助けてあげたのに逃げるなんて薄情だねー」

 意地悪そうな笑みを浮かべたアリア。そう、舞い降りた天使はアリアであり、その格好は前と同じで女子高生スタイルだ。
 一体何をしに来たのか? どうして自分を助けたのか?
 仄音は足りない頭を高速で思考させたが、一向に答えが見つからない。ただ分かるのは、一刻も早く逃げた方が身のためだと言う事だが、逃れられそうにない。

「お、お願い! 見逃してください! お金ならあげるから……!」

「五百円だけ!? さっき警察に千円札を渡していたよね!?」

「ひぃっ! ご、ごめんなさい! これも私のちっぽけなプライドなんです!」

「天使を目の前にしてプライドなんて……! ま、まあいいし……私が貴方を助けたのはこれが理由だから」

 そう言ってアリアは警察の掌にあったエンジェルパウダーを手にした。
 先ほども言った通り、エンジェルパウダーとは天使の間では万能だ。そのため需要が高く、供給が間に合っていない。天使たちにとって貴金属のようなものなのだ。
 それを間接的にロトから奪い取ったアリアは不敵な笑みを浮かべ、再び仄音と向き合った。

「はぁ~さいっこう! ロトからエンジェルパウダーを奪えるなんて……!」

「は、はぁ……」

「……今、変なこと思ったでしょ?」

「め、滅相もないです!」

 本当は変態と思っていたのだが、口が裂けても言えない仄音は視線を逸らしてはぐらかす。

「そうだ! 仄音さんには死んでもらわないといけないし、ちょっと私に付き合いなさい!」

「え、普通に嫌――はい」

 アリアがシャボン玉を掌に浮かべたことにより、拒否権がないと悟った仄音は死を覚悟した。




(なんだこれ……なんなんだこれ……)

 仄音は思考停止していた。
 アリアの水魔法によってシャボン玉の中に閉じ込められ、そのまま空を飛んでいる。比喩ではなく、本当に空を飛んでいるのだ。
 アリアは翼を羽ばたかせ、仄音はそれに着いていく形で浮遊している。まるで連行される犯罪者のようだろう。
 上空何百メートルだろうか?
 もしも、魔法を解除されたら仄音は即死だろう。地面に臓器と血を撒き散らしての圧死だ。

「そんなに怯えなくても殺さないから。今日は、ね」

「何ですか、その明日には死ぬみたいな言い方は? って言うかど、一体何処に向かって……」

 仄音は高いところは苦手ではない。しかし、限度がある。
 安全かどうか確証もない未知の手段で上空何百メートルに居たら、誰だって恐怖で竦んでしまうものだろう。仄音もその一人であり、命をアリアによって掴まれているので尚更だ。

「目的地はないのだけど……ただ仄音さんに私たち天使の実態を見せた方がいいと思って……」

「実態?」

「そう。貴方はロトの加護を受けているらしいけど、自分から逃れたくなるほど絶望的な現実を突きつけてあげる」

「……アリアさんはロトちゃんが嫌いなの?」

「そうよ」

 アリアは心底嫌そうに顔を顰めて、子供のように暴れ出す。

「むきー! ロトが侮辱してきたことは忘れてないんだから! 最新だとロトナンバー百五! あれは一か月前の天使集会の日! ロトは私の恋路を邪魔したの!」

 恨めしそうなアリアは肩身離さず持ち歩いている真っ黒な手帳を取り出した。
 表紙には血で殴り書いたような文字で『ロトナンバー』と宝くじのようなタイトル。見ただけで呪われそうで、少し読めば死んでしまう。そういう先入観を抱いてしまうほどに禍々しいオーラを放つ手帳を読み始めた。