すべって反射した世界から

『白銀の心』
 凍てついた真っ白な息が天空へと消える。朧げな意識の中、私は生きていた。
 寒い。寒い。あまりに鈍い五感。もはや私の心まで凍えてしまったか。心の片隅に心はいないのか。
 ああ、荒んでいる。さながら荒野のように私は荒みきっている。
 何をするわけでもなく、ただ生きている。嵐の中を彷徨う難破船のように、ふらふらとしていた。

 あてもなく歩く。
 舵も取らず走った。

 どこで間違ったのか。

 まだ見ぬ世界に未来を見る。
 絶望の歴史を識った。

 上手くいかない。

 立ち止まって空を仰ぐ。
 振り返れば俯いた。

 舞台は成功するはずだった。

 勇気はある。
 虚勢だった。

 空回り。

 失敗した……これが終末……神々が望んだ罰……

 身体を打ちつける飴玉のような氷。時には素肌に当たるが、感触は鈍い。体温が下がり過ぎているのだろう。それ故か、眠気があり、朦朧としている。
 やはり気温が下がり過ぎた。これでは人は生きられない。植物だって育たない。星は氷という檻に覆われてしまった。生き物に厳しい世界になってしまった。

 視界にノイズが走り、暗転。
 風に飛ばされたトランプのように雪へ斃れる。

 ふと目に入ったのは青い月。真っ黒で輝いている大海原のように澄んだ青だろう。淡い光が差し込み、まるで水晶のように輝いている。
 そっと手を伸ばす。
 届きそうで届かず、伸ばした手は虚を切って落ちる。万有引力に従った。重力というものは煩わしい。
 こんなにも重い肉体は捨てるべきか。
 ……私は諦めるべきなのか。

「フィーアちゃん……しっかりしてよ」

 夢か、幻か。
 私に差し込んだのは心という光だ。

「私たち、誓ったよね。この世界を救うって。それなのに、フィーアちゃんは諦めちゃうの?」

 私たちはカードの裏表。
 貴方は陽の光を浴びる表。
 私は一寸の光すらも届かない裏。

 なのに、どうしてこうも温かいのだろう。
 背中越しに感じる。
 確かな心の眼差し。
 深い胸の奥底まで届く希望。
 勇気が芽生えた。
 少しだけ頑張ろうと思えた。
 まだ、この世界には希望がある。私たちがいる。カゲロウのように生きている。

「そう! 私がいるよ! 私がフィーアちゃんの勇気になってあげる!」

 下がりきったこの世界の上。
 すれ違う現実は甘くはない。
 集う運命ではなかった。
 自由は芽吹かない。

 そうだ。私たちは誓ったんだ……

 心が在る限り、私は立ち上がる。
 重たい身体を起こし、その身に力を巡らせる。嘘のように温かくなる。心がよろけないように支えてくれている。
 それだけ頑張れる。
 悴む手で傷跡をなぞった。


『白銀の天空』
 絶望に染まった白銀の世界。
 凍てついた街の中は荒れ果てている。人々は凍りつき、生きているのか死んでいるのか。
 放っておけばいずれこうなったが、それを早めたのは私の失態だ。
 痛む胸を押さえていると、ふと誰かが通り過ぎた。

「なんだ。おまえか……」

 天空だ。
 彼女を探しに来た幸先は良いだろう。しかし、予想だにしていない場所での出会いということもあり、呆気に取られてしまう。
 頭の中に浮かぶコピー用紙。真っ白になった私はただ天空を仰ぐことしかできない。

「私たちは失敗した。その結果がこの有様さ。急激に下がった気温で何もかもが凍りついた。私の故郷は思い出のように変わらない。このまま冷凍保存されるのか……」

 そんなことにはならない。
 何故なら、私と天空がいるから。

「……いまさら熱くなっても氷は溶けない」

 不貞腐れたようにそっぽを向いた天空。その横顔から見てとれるのは不健康な青白さと寝不足の隈。憔悴しているようで、天空の瞳には暗い闇が広がっている。
 心に勇気が宿る前の、絶対絶望に打ちひしがれている自分を見ているようで嫌になるが、逃げるわけにはいかない。
 私はじっと天空を見据える。
 すると、天空は面映いのか、目を逸らして仰いでいる。平静を装っているようだが、同じ夢を見た私には分かる。

 もう一度、私と共に目指してほしい。

 演じてる手を取った。人形のように白い腕は微かに温かい。
 天空から雫が溢れた。
 そっとすくいあげる。

「私は……もう何も思えない。どうせ残る命は短い……そう、私もこの街に溶け込むんだろうな……それはいやだ。いやだ。助けてくれ、フィーア。お前の望むことなら何だってする。だから、もう一度あの力を……」

 天空は震えて選んだ。
 あの天空が、声を震わせて求めたのは儚いもの。儚く散ってしまいそうな、取り留めのないものだった。
 弱い。
 そこに強い意志は感じられない。
 結局、私に縋りつき泣いているだけ。垂れてきた蜘蛛の糸を必死に掴んでいるだけ。
 それではダメなのだ。
 自分の二本足で立ち、気概を示す。硬い意志が必要だ。
 かつての天空がそうだったように、そうならないと――いや、それを超えないと世界は救えない。
 以前の私たちのままだと結果は変わらない。この箱庭は冷えていくのみ。
 私は言う。

 未だ終わっていない。

 天空が立ち直れると信じて、私は本心を曝け出した。
 たとえ、それが彼女にとっての劇薬だったとしても、苦しみを味わったとしても、透き通った原石になるならば――


『白銀の大地』
 凍てついた部屋の中、優雅そうに紅茶を嗜むエレミアがいた。
 彼女の家は裕福で、絵に描いたようなお屋敷だった。
 けれども、かつては家族団欒だった温かい空間は冷え切っていて、まるで未来永劫を約束されているようだ。

「久しぶりに自分で紅茶を淹れましたが……やっぱりダメですわ」

 彼女は冷めたカップを置いた、
 部屋の中は何もかもが凍りついている。
 花瓶に差された花は真っ青になり、存在していた家族は石でしかない。

「あら? 何の用かしら?」

 そこで漸く、私の存在に気づいたようで一瞬だけ喫驚するも、直ぐにいつもの落ち着いたエレミアに戻ってしまった。
 まるで私が何を切り出すか知っているかのように、この世界の末を識っているかのように、毅然とした態度を貫いているように思える。

「そう……フィーアは茨の道を選ぶと……」

 エレミアは俯く。
 そして、真っ直ぐと私を見つめた。
 
「不思議ね……上手くしていたはずなのに、上手くやろうとすればするほど、何もかも凍ってしまった。空や海、大地だけでなく、私の家族ですら……ふふ、いつ見ても綺麗に凍っているわね。どうやら食事中だったようで、微笑ましい光景……美しい光景……」

 耳を防いでも視えてしまうのは現実だ。
 エレミアが言う光景とは、もはや日常になっている。どこにでもある事象であり、エレミアの家族は気の毒に思うが、積み上げられた氷の一つでしかない。

「消えてしまう季節すら選べないのなら……」

 エレミアは立ち上がり、紅茶を飲み干した。

「不味いですわ……この状況も、何もかもが」

 コトリとカップを机に置き、彼女は愛する母の頬に触れた。
 体温で解けてしまえば良かったのに、現実は生温いものではない。身体の芯から凍えるような闇一色だ。
 エレミアの母は一体、何を思っているのだろう。表情から苦痛は読み取れない。いや、苦痛を覚える暇もなく凍ってしまったのだろう。

 怒りから手に力が入った。
 どうして自分は無力なのだろう。気の利いた言葉すら言えない。
 行き場のない怒りは胸の中を去来して、そのまま消えていく。
 そして虚脱感。
 身体から熱が抜け、私はただエレミアを見つめる。

 冷静になる。

 それはきっとエレミアも同じだ。

 彼女は苦しいのだろう。
 私たちが失敗した所為で、何かもを失った。家族だけでなく、一筋の希望すら、絶望で塗りかえられた。凍てついた闇に呑まれた。

「本当に……この世界は終わっています」

 それは終末ではない。
 まだ私たちがいる。

「いえ、これで終わりです」

 そう言ってエレミアは壁に掛けられた銃を手に取った。
 長い筒を、銃口を、さも当然かのように私へと突きつけた。
 引き金を引き――空砲。

「なんて冗談ですわ」

 肝が冷えた。


『白銀の海』
 月明かりを頼りに歩くこと暫く。
 凍てついた氷河に捕まっている幾つもの船を通り過ぎた。

 どれだけ探しているのだろう。
 何度も月が顔を見せた。

 分厚い氷がコツコツと音を立て、もはや大海原の面影はない。
 スケートリンクのような大地を這っていると、漸く見覚えのある船が見えてきた。

 動かない。

 羅針盤が壊れているのか。
 いや、彼女ならばそんなもの当てにしないだろう。

 甲板へと飛び乗ると、そこには難解なパズルを解くように顔を顰めているドレークがいた。

「あー動かないのぜ。船旅は終わりかぁ……まさかここまで冷え込むとは……」

 どうやら海が凍り、氷の大地と化しているため出航できないらしい。
 私はドレークに声を掛ける。

「おっ! フィーアじゃないか!」

 ドレークは再会を喜ぶように駆け寄ってきた。
 その様子はそこまで思い詰めているように見えず、いつものドレークのようで、私は安堵の息を吐いた。

 吐息は白くなり、虚空へ消えた。

 ドレークはじーっと私を見据えると、品定めをするかのように観察してきた。頭の天辺から爪先。次に私の周りを一周すると、満足したかのように頷く。

「うんうん、マシになったのぜ。あの時のフィーアは見てられなかったからな。あっ何も言わなくていいのぜ。リスタートだろ? 練習はきちんとしていたのぜ!」

 そういった彼女は愛用のスティックをこちらに掲げた。所々が凹み、ささくれ、欠けてしまっているが、未だにスティックの形状を保っているそれはいつ折れても可笑しくはない筈なのに、不思議とそんな気はしなかった。
 ドレークは私があげたスティックを大事に使っているようだ。
 思い返せばそうだ。
 眼帯を付けて、深く黒いハットを被る彼女は絵に描いたような海賊に憧れていて、その影響かどこか粗暴でいて、友誼に厚かった。いつも真っ直ぐでいてブレない。
 そんな彼女に、応えたいと思った。
 私は彼女を救わないといけない。

「それじゃあ出航準備なのぜ!」

 ばたばたと船内へ駆け込んでいくドレーク。
 上手くいくと自分に言い聞かせ、彼女の期待を真摯に受け止めた私は進む。
 そこに迷いはなかった。


『春歌』
 凍りついた世界の片隅で、月光に魅入られた宵の蝶のように私たちは導かれた。

 有明の眩しさ。

 両手を透き通るのは冬か春か、研ぎ澄まされた切り札は反射した。

 空が白む。

 白銀の舞台へと、白詰草の夢を見た。